【ブログ&コラム】心配がつづく。
先ほど安倍サンの会見を少し見た。なんの中身もない。よく記者は暴動を起こさないよと思った。耐えられなくなりすぐに見るのを止めたのだが、どうやらその後、ビデオニュースの神保哲生さんがついに質問できたらしい。
https://twitter.com/tjimbo/status/1243850714700566529
セッション22でいつも聴いているジャーナリストの方で、彼がずっと手を挙げ続けていることを知っていたので、うれしい。もちろん、記者クラブ所属の会社の記者しか質問させてもらないことが異常なので、うれしいというのもおかしいのだが。
一人暮らしの学生・卒業生のことが気がかりだ。でも、実家に帰らないでほしい。もう感染しているかもしれないから。また、家の環境が悪い(DVや虐待など)子どもたちも心配。家にいることがそもそも危険なのに、外に出られないわけだから。何かできることはないか。
これからどうなるのだろう。
【ブログ&コラム】洗いすぎてカサカサになった手で再開するブログ。
新型コロナウィルスで大変なことになっている。世界中。
手洗いうがいを徹底すればなんとかなるだろうとのんきに構えていた私も、先の見えない不安をそれなりに強く感じ始めている。海外に住んでいる人たちのSNS投稿を見ると、日本国内は危機意識がなさすぎるようでもあり。最大限の注意をはらわないといけない。
私自身はいまだにのんきが残っていて、自分が肺炎に至ることはイメージができない。でも、無症状のままウィルスをまき散らす可能性は大いにあるので、それが恐ろしい。誰かを知らないうちに大変な目に遭わせたらどうしよう。かかったら大変な世代に差し掛かっている両親には電話をして、外を出歩かないように話した。年配の親戚にも。
そんな中でさっき、ふと、何十年後かに、あのコロナのときは大変だったね、でもなんとか乗り越えたねと、友達や家族と言い合うときがくるのかなと考えた。これ自体もかなり楽観的でのんきな想像なのだが。早くワクチンや特効薬が開発されますように。世界中の専門家がきっと全力で取り組んでくれている。
【ブログ&コラム】旧暦的には年末。
あけましておめでとうございます。もう2/1になってしまっているけど。旧暦をこのブログでは適用するということにしよう、と思ったら2019年の旧正月は2/5なんだそうだ。うまくいかんもんですな。
2018年は本当に濃厚な1年だった。正直、けっこう満足している。それでもまだやれる、もっといけるという気だけはしているので、2019年もドロッドロに濃厚な1年にしたい。
先週で授業が終わった。終わったとたんインフルエンザにかかってしまい、すっかり元気になった今は、やる気を漲らせてはたらいている。つもりである。
最近、ひとつ仕事のコツをおぼえた。打ち合わせや会議の途中、少しでも不安になったら「今○○のお話ですよね?」「××っていう方向性ですかね?」と直接的に確認するということだ。アホと思われようが、察しが悪いとバレようが関係ない。事実だからしかたない。もう直接、アナタガイマハナシテイルノハコウイウコトデスカ。と聞くのが、一番早いのだと今更ながら思っている。
【ブログ】雪かきには別の意味もあった
6月は普段の授業に加えて通信課程の集中講義があり、また外回り系の仕事や〆切等もあって盛りだくさんである。毎日ブログを書くというプランはあっというまに頓挫した。新しい習慣をつくるということも、プロダクティブに生きるということも、私には本当に難しい。
今日はSpotifyを始めた。たしか堀正岳さんの記事かTweetを読んで、非常に気になっていたのだ。これはよいなあ。新しい音楽と出会える予感。どこかのネット記事で、新しい曲を発掘するのは24歳がピークで、その後は馴染みのもののリプレイリプレイになってゆくのだと読んだのだが(これです)、私は今のところ、というかここ2.3年、知らなかった音楽を知ることに積極的になっている。それをさらに活性化してくれそう、Spotify。
やることがたんまりあって忙しい忙しいと思いながら、村上春樹の第何次めかのブームも来ている。今は『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいる。上巻でかの有名な「文化的雪かき」が登場、おおおと感動する。そして、ついに会えたよと思ったら、その後も何度も何度も出てきた。なるほど、そういうことだったのか。初めて知りました。
村上春樹の小説を読んでいると、美味しそうな洋風の料理名や食材名が出てくる。スモーク・サーモン・サンドイッチとか、ホース・ラディッシュ・マスタードとか。ペペロンチーノみたいなのもつくっていたかな。主人公は、手際よくとても美味しそうに料理をつくるし、コーヒーを淹れたりもできる。洋服を畳んだり洗濯したりも、けっこうしている。
ダンス・ダンス・ダンスは1983年の設定になっている。こんなに料理や家事全般を日常の流れのなかでやる男性は、当時今よりもさらに珍しかっただろうと思う。こうしたキャラクターを当時の人々はどのように受け止めたんだろうか。ちょっと気になる。メタ読書沼。
【ブログ】ミニミニ楽器教室
先週のことになるが、保育園から遠足で本学にやってきた子どもたちに、ミニミニ楽器教室をひらいた。企画・実施は森ゼミ3年生。遠足自体は、保育の先生方を中心に毎年おこなっているもので、森ゼミはそれにお声かけ頂いて参画したというかたち。
【CA林のつぶやき】昨日は北千住にある #日ノ出町保育園 のかわいい園児たちが遠足で"大学探検"をしにきてくれました。これは、#こども保育・教育専攻 の保育系ゼミ合同(3年)の 地域連携活動のひとつ。授業見学をしたり、ゲームをしたり、一緒にお弁当を食べたりして楽しくふれあいました。#保育 pic.twitter.com/sa33s44eDE
— 東京未来大学 (@tokyomirai) 2018年5月31日
このTweetの、学生が子どもたちにチューバを見せている写真が、我々の実施の様子なのだが、こうして見ると、子どもたちが身を乗り出してくれているのが分かる。嬉しいなあ。
音色を聴かせようと、楽器庫に隠してあったチューバを持ってきたとき、子どもたちが「大きい!」「きんぴかだ」「(自分たちの姿がチューバに)うつってるー」と口ぐちに言いはじめた。それに答えてゼミ生がチューバを持って立ち上がり、子どもたちの方に向けた。チューバに向かって「おーい」と手をふる子どもたち。とても面白い光景だった。
人は音楽をするとき、音を聴いている・出している、だけではない。見たり、考えたり、言語化したり…ミクロな、種々雑多な行為の集積として、音楽実践がある。あたりまえのようだが大切な前提が顕著にあらわれたこのシーンを、学生がどのように捉えたか。どのように自分の保育・教育にいかそうと思うのか。これからのゼミのなかで話し合っていきたい。
【ブログ&コラム】未就園児教室@幼稚園
今日はとある幼稚園にて、未就園児と親御さん向けの音楽教室をさせて頂いた。20分のワークを2回、間に20分程のお休みをはさむという構成。この時間構成は初めてだったけど、子どもたちの様子を見ているとちょうどよいのかもしれないと感じた。集中の度合いからもそうなんだけど、20分の休憩をはさんでもういちど教室に入ってくるとき、子どもたちの迷いのなさ、緊張度合が全然違っていて。ワークへの参加のしかたも、後半はひとりひとりの個性がよく出ていた。勉強になった。
親御さんには、子どもの発するうたや、音楽的な行為には、こんな意味があるとか、わらべうたにはこんな特徴があるとかいったお話もすこしさせて頂いた。とても熱心に聞いてくださって嬉しかった。なかには、「ああ、たしかにやってるやってる」と、おうちでのお子さんの様子を振り返っていらっしゃるお母さまもいて。
子どもが生活のなかでくりだしている音楽的な表出・表現は、親御さんにとってきっとたまらなくかわいいものだろう。他人の私からみても悶絶のかわいさだから。でもそうした表出・表現は日常のそこここにたぶんあまりにたくさんあふれているし、子育てはきっと日々激務なので、その行為が音楽的であるとかないとか、そのうた(的な発話)に何らかの意味があるとかないとか、考える機会はそれほどないのではないかな、と思ったりする。
そんなこともあって、私はいつからか、こういう教室をするときには、子どもに楽しんで参加してもらおうとするだけではなくて、子どもと音楽をめぐる話を、なんとかチャンスを見つけて、親御さんに少しでもお届けしようとするようになった。もしかしたらほんの少しでも、日々の暮らしのなかで思い出されて、それが親子の何かにつながったら。僥倖というほかないことだ。
面白かったこと、発見がたくさんあったので、次の機会に生かしたい。