モグラボラトリ日誌

森薫のウェブ・サイト「モグラボラトリ」のブログ&コラムです。

【ブログ&コラム】「○○してあげる」は言わないと決めている

どうしても気になっていること。

最近、日大アメフト部の騒動、というか事件について、ふとしたときに考えてしまう。教育に携わる人間の1人として、憤りや心配、共感、驚愕、賞賛、色々な気持ちが交錯する。

ただ、どうしても気になることがある。それは事件に直接関わらないことなのだが、どうしてももやもやしてしまうのでここに書いてみたい。

私が気になっているのは、日大を批判する/しないに限らず、メディアに登場するアメフト有識者やそうでないコメンテーターの大人たちが、学生へのケアや教育について、「○○してあげないといけない」「××してあげるべきだった」という言いかたを割とふつうに使うことだ。

大学生に日々接していて、私が意識してできる限り使わないようにしている言い方のひとつが、この「○○してあげる」話法である。この言い方、私がうがちすぎなのかもしれないが、正しい道・あるべき道を知っている大人が、何も知らない子どもに対して何かを上から与えてやる、というニュアンスが潜んでいる気がしてならない。

私はこれが最善策だと思う、だからこの方法を「提示」する。でもそれをするかしないかは学生が判断することである。そういう関係性やコミュニケーションを私は志向している。それこそが、社会に出ていく学生に対して教員が取るべき態度であると思っている。

内心は、ゼミ生のことなんてかわいいああかわいいと思っているし、「これしてあげたいあれしてあげたい」的な感情は私の中にあると思う。しかしそれを表明するときには、できる限りの配慮をしなければならない。アイデアや方法論は上から与えるものではなく、同じ位置から向き合って提示し、する・しないの決断は彼らにゆだねられるべきものではないだろうか。

学生がどう受け取っているかはわからないが、私はそう考えて、いつも気を付けている。メディアに登場する大人たちの「○○してあげる」の物言いは、極端な見方をすれば、学生の自由を奪い判断力を失わせるものであって、今まさに批判されている日大アメフト部の指導方法と、通じてしまうおそれもあるのではないか。言い過ぎかもしれないが…。

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集めすぎ雑貨シリーズ。

 

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 これは、ペットボトル飲料や缶詰についてきた付箋。10年くらい前のものもあり、かわいくて使えないわと取っておきすぎて、ほとんどが粘着性を失っている。最近もういい加減に、と思ってせっせと色々なことに使っているが、はがしたあと、全然くっつかない。切ない。あの頃さっさと使っていれば、こんなことにはならなかったのに。