モグラボラトリ日誌

森薫のウェブ・サイト「モグラボラトリ」のブログ&コラムです。

【ブログ&コラム】名文の魔力に注意。

今日は通常通りの出勤の後、夕方近くから教育実習に関する仕事で小学校に行き、そのまま直帰した。久しぶりにまともな時間に帰宅し夕ご飯も済ませ、今は家で仕事をしている。労働時間は変わらなくても、夜は家にいる方が追いまくられている感覚は軽減されるようだ。ただしこれもしばらく実験が必要。

ところで。

SNSである人が、ある文章に対して「私が言いたいことをまさに言ってくれている!」と書いているのを読んだ。これは私自身も、共感する内容且つ表現力豊か・的確な文章に出会ったときに思うことだ。でも、もしかすると「本当に私が言いたいこと・思っていること」はその文章に書かれていることとは違うかもしれないよな、と最近考えてしまう。

名文には魔力がある。私もいっしょの意見!と幻惑されてしまうような魔力が。ドライブ力といってもいいかもしれない。しかし、大意はたしかに同じでも、ひとつひとつチェックしていけばおそらく、必ずディテールに差異がある。その差異に、私を私たらしめる/筆者を筆者たらしめる何かがある。そのことになるべく自覚的でいたい。本当に同じかどうか、精査しないとね、と自分を戒めてみる今日この頃。

 

【ブログ&コラム】生きています2018

就職して以来、こんなに追いまくられる3週間はあっただろうか。いや、ない。そして何でこんなに忙しかったのかが分からない。理由が曖昧なので、また唐突にこういう3週間が来るのではないかとびびっている。

授業が始まると忙しくなるのはまあ例年通りのことなのだが、それにしたってこりゃないよ、だ。先々週、先週は、12時間以上職場にいる日が確か7回。そして家でも仕事している。これはいけない。絶対いけない。恐るべし、裁量労働制

もちろん、3週間をちゃんと思い返せば年度初めならではの出会いとか、楽しいことも嬉しいこともたくさんあったんだけれど。でもそれより、とりあえず生きてます的な安堵感と、まだまだ続きそうなバタバタの日常に対する怯えが大きいそんな日曜夜である。

こういう時こそ日記を書くべきなんだろう。何が自分の日常に起こっているのかをあぶりだすためにも。

 

【ブログ&コラム】「憧れの最近接領域」をつくりだすモレスキン

手書きの日記を書いている。日記を書く習慣を持つことに対する憧れは昔からあり、これまで何度かトライして、いずれも続かなかったのだが、今回はもうすぐ8か月。そろそろノート1冊を使い終わりそうなところだ。数行で終わる日もあれば、2ページに渡る日もあるといった分量で、数日をまとめ書きすることも多いので、まあ適当な感じだが、一応続いている。

続けられている理由は明白。

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使っているノートがめちゃくちゃかわいいからである。モレスキン×ブルーノートのコラボノート。高かった。こんな素敵なノートで日記を書くとか超イケてるし(注:このブログは1990年代末に女子高生だった人間が書いています)、もしこれを使い始めて途中で投げ出したらもう自己嫌悪でやってられないので、どうにか続いたのである。

かたちから入るというのは、結構意味あることのように思われる。とっておきのノートで日記を書けば続く。日記を書く習慣が形成されたら、普通のノートにしても続くだろう。勉強などもそうだろうと思う。私はよくゼミ生に、かわいいノートやかわいいペンを買って卒論用に使うことを勧める。

教育工学者の上田信行(2009)による著書『プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法』(宣伝会議)に、「憧れの最近接領域」という概念が登場する。ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」の概念を上田が援用したもので、この人と一緒にいたらなんだかできそうな気がしてくる、という他者含みの自信のことである(pp.123-124)。私はこれは、憧れのモノを手にしたり、憧れの格好をしてみたりすることでも立ち上がってくると思う。上田自身、本書以外のインタビュー等で、そうしたことも述べている。

 

 なんだか話があさっての方向に行ったな。

さて、過去のページをふと開いてみたら、友だちと飲みに行ったら禁煙をがんばっていてエライと思ったこと、その友だちの肌の調子が良くなっていて嬉しいということが書いてあった。日記をつけはじめた当初は、研究や何かの着想を書いて活用したいとか、そんな野望もあったのだが、続けてみると内容はいつもこんな感じだ。でも、10年後か20年後か、読み返したら、こんな内容がとても楽しいのかもしれない。まだしばらくは続けるつもりでいる。

 

 

 

【ブログ&コラム】私の教育実習

このところ、保育所で実習をしている学生のところに行き、園長先生や実習担当の先生、実習している学生本人にお話を伺うという「実習巡回」をしている。日々の保育の激務のなか、実習に来ている学生をあたたかく見守って下さっている先生方には本当に、感謝しかない(最近はやりの「○○しかない」話法きらいなのだが、ここは本当にそうなので使っちゃう)。実習生を受け入れるというのは、もうものすごい負担増だ。

今日も、学生の個性に思いを寄せて下さり、日誌の書き振りも細かく見て下さっている先生とお話をしていて、ふと自分の初めての教育実習のときのことを思い出した。

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大学3年時の教育実習で、私は通っていた大学の附属中に行った。初めての実習だったし、その頃は教員になるという確たる思いもなかったし(これは今思えば受けいれて下さる学校に対してとても失礼な話なのだが)、一緒に行った同じ専攻の友人の中にはとても授業のうまい人がいたりもして、あまり自分のしていることに自信を持てず…でも、中学生って面白いんだなあとわくわくもしながら、右往左往、何とかやっていた。

実習開始から10日ほど経ったある日、音楽室で部活か何かをしている生徒達を見ていた。生徒達は思春期真っただ中で、実習生である私を意識はしているようだが、あまり話しかけてくることはない。私も、ウザイと思われたら悲しいので、あまりガンガン近づくことができない。そんな状況のなか、ふと気づくと私の隣に実習指導担当の音楽の先生(T川先生という先生です)が立っていらした。そして、ニコニコしながら、こう言ったのである。

「森さん、子どもたちかわいいでしょう。」

私は、突然の一言にびっくりしながら、そう、そうなんですよ!!!と思った。うまく授業もできないし、生徒達とコミュニケーションが取れているわけでもなかったのだが、生徒たちの一挙手一投足に夢中で、実はメロメロである自分に、そこで初めて気づいたのだ。私が、「はい」と答えると、先生はつづけて、

「森さん見てたらわかるよ。それが大切なことなんだよ。それがあれば大丈夫。」

と仰った。先生はすぐにその場を離れて行かれたのだが、私はそこに立ったまま、たくさんの生徒達がきゃっきゃしている音楽室で、今度は急に泣きそうになるのを一生懸命こらえた。不安はすーっととけていった。そして、その言葉が、その後教員になるひとつのきっかけになった。

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今でもこのことを時々思い出す。特に、教員になりたてのころ、授業や学生指導でうまくいかないことが多かった時期には、頻繁に思い出して、「いや、たぶん大丈夫!私、学生/生徒のことめっちゃ愛してるもん。来週はうまくいくはず。」と自分を励まし、授業準備や教材研究に取り組んできた。先生は、授業もまずく、不安そうにしている私をフォローするつもりで仰ったのかもしれないが、人生にとって、ものすごく大きな言葉を頂いたと思っている。いつかあの先生のように、その言葉を必要としている人に、ぴったりの言葉を、ぴったりのタイミングで、そっと伝えられるような人間になりたいとも思う。

ああ、今書きながら思い出して、ありがたさにまた泣きそう。

大学生にとって実習というのは本当にタフでハードなものだ。仮に教員志望度が強かったとしても、プロの教員の技術や激務の毎日を目の当たりにしたら腰が引けるし、限られた期間で子どもたちと繋がりをもつことはとても難しいし。でも、学生たちには、その中で色々な失敗や成功、色々な思いをして、保育者・教育者になる決断やならない決断をしてほしいなあと思う。そしてなるにせよ、ならないにせよ、実習がその後の糧になるような経験になればいいとも願っている。

 

【ブログ&コラム】ダメ、絶対。

今週は、卒論発表会、原稿執筆、論文リバイズ、成績つけ、入学前教育と、えらい騒ぎであった。ザ・年度末。そしてやむを得ず久しぶりに徹夜をしたところ、翌日は腰痛悪化、翌々日はナゾの頭痛と、さんざんなことに。

なんとか1週間を乗り越えた今、自分が30代半ばであるという事実を静かにかみ締めている。もう徹夜、ダメ、絶対。

土日は何とか、久しぶりにジムに、と思っている。でも、腰痛があるときのワークアウトはどんなことに気をつければよいのかを、ググるところからのスタートだなあ。

【ブログ&コラム】他人の日記は蜜の味

誰かの日記をまとめた書籍が好きだ。他人の日常を覗く背徳感。公刊してくれているのだから、堂々と読んでいいものだし実際堂々と読むのだが、日記は本来他人に見せるためのものではないので、やはりちょっと、悪いことをしている気分になる。それがいい。

というわけで、最近これを買った。

 

特集が「創る人52人の「激動2017」日記リレー」というもので、作家や芸術家、映画監督等の日記1人あたり1週間分が、合計で1年分収められている。1人1週間なのですぐ終わってしまうが、パスタをつくって食べた、とか、〇〇の本を10頁くらい読んだ、とか、個人名が下の名前で出てきて説明もされていなかったりとかして、他人の日記を読む愉しみがちゃんとある。

私は、映画監督や劇作家の人の日記が好きなようだ。自分の日常を俯瞰で見ている感じがいいのかも。まだ出だししか読んでいないので、今抱えている仕事がひと段落したら、続きを読むつもり。

そういえば多くの人が何らかのかたちで安倍首相に触れている。

 

他人の日記を読む愉しみシリーズだと、近年はこれも面白かった。

バンド「クリープハイプ」のボーカルの人が書いた日記。新曲をつくる過程を中心に、かなり生々しく日々の気持ちを書いている。産みの苦しみ、ライブMCがうまくいったかいかないか、他バンドへの妬み嫉みや、かつての知人に対する落胆なども。結構感情移入しながら一気読みしたので、女の子とデートしたという文を読んだときには、「はープライベートを楽しんでいてよかったよ〜」、「やるやん、このこの~♪」みたいな謎のなれなれしい感情を抱いた。読み終えた後、バンドの曲も聴いた。「イト」「鬼」今も結構好きな曲(どっちもシングル曲、ニワカもニワカですみません)。

 

こちらは、日記だけでなくエッセイや手紙も含んだ、〆切にまつわる文章を集めた本。何かと〆切に追われる人間(今も…)にとっては、こんな文豪も、あんな売れっ子作家もみんな苦しんでるんだ!という気持ちになれて楽しい。つらつらつらつら、異常な語彙力・表現力でもって言い訳をつづっている明治~大正期の小説家たち(読んでから時間が経ってしまい個人名が出てこない)には、さすがに「これ手書きで書くくらいなら原稿やればいいのに」と私でも思ってしまう。そのいびつさを、愛さずにはいられない。

 

ちなみに、シャーロック・ホームズのシリーズや村上春樹の作品も、他人の日記を読む愉しみの要素を多分に含んでいると思っている。ホームズがソファに腰かけながらワトソンと喋っているところの描写とか、村上春樹作品の主人公が朝ごはんをつくって食べて掃除しているところの描写とかに漂う、日常感。何でもない、ある一日のなかの、ある時間の流れの描写。謎解きや冒険のはざまにあるそういうシーンを読んでいると、小気味の良さをおぼえる。

【ブログ&コラム】世界を旅するグランド・ピアノ

先日某大型楽器店に行ったところ、アジアの国々からの観光客とおぼしき人たちがたくさんいた。まあそれは特に驚くことでもないのだが、グランドピアノのフロアに行くと、そこにも次々にやってきて、熱心にピアノの試奏や選定をしている。

店員さんに尋ねたところ、海外からの観光客で、日本でグランドピアノを購入していく人は割といる、とのこと。お店(都内)で買って、お店が港までトラックで配送し、そこからはお客さんが自力で手配して、住んでいる国まで船で輸送、という流れになるそうだ。

ピアノはヨーロッパの工房でつくられる。その楽器店にあったのはベーゼンフドルファーだったのでオーストリアでつくられたとして、そこから日本にやってきて、そしてアジア各国に・・・ということになる。どうやって運ぶのか(そのまま運ぶのか、解体して運ぶのか等)はわからないが、大きなピアノがぶーんぶーん・どんぶらこっこと世界を旅して、誰かの家やホールに迎えられ、活躍するようになる、と想像するとなんだか愉快な気持ちになる。

・・・ところでこの文章を書いていて思ったが、楽器を擬人化したくなるのは、音楽をやっている人間の癖なんだろうか。私は性別なしで擬人化するのだが、恋愛対象となる性で擬人化する人も周りに結構いる。男性ギタリストが、ギターを女性としてみる、といったような感じで。楽器を見ながらさもいとおしそうに、「コイツは結構わがままでさ・・・」みたいなたわごと(失礼)を言っている人を見たことも、一度や二度ではない。

そして私は擬人化だけでなく、感情移入もめちゃめちゃしてしまう。少し前に学生が音楽室のグランド・ピアノの蓋を乱暴に閉めたときなんてもう、「ちょっとアンタ!!この子に何してくれてんのよっ!!」ぐらいの勢いで飛んでいったし、蓋をなでなでしながら心の中で「かわいそうに、ごめんね・・・」と謝った。でもそういう人、老若男女問わず、結構いるような気がするんだなー。